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ENGLISH FOR LIFE

私と日本語:ステージ2

ステージ1の続きです。

叔父が名古屋にある会社と取引をしていましたので、その社長の家でホームスティをすることになりました。ホームスティの家族は社長、奥さん、私と同年齢の娘さんとおばあちゃんの4人と犬2匹でした(残念ながらその一匹もローラと呼ばれていた)。皆さんは優しかったですが、なかなかコミュニケーションが計れませんでした。お父さんはゆっくり話してくれましたが、あまり家にいませんでした。娘さんも好きでしたが、彼氏に夢中でいつも自分の部屋に閉じこもって長電話をしていました。おばあちゃんは私に何度も話しかけてくれましたが、よく理解できなかったので、段々話しかけてくれなくなりました。一番よく関わったのはお母さんでした。とてもきれいでいつもおしゃれに服を着こなしていて、素敵なお母さんでした。お母さんも私も会話をよく頑張っていたと思いますが、今一コミュニケーションができず、段々お互いにいらいらしてきました。

毎晩自分の部屋で日本語を必死に勉強しましたが、状況があまり良くなりませんでした。実はお母さんは関西弁で、お父さん、娘さんとおばあちゃんは名古屋弁で、皆さんが私にそれぞれの方言で話していました。自分の話し方を相手のレベルに合わせるのは実に難しくて仕方がないと思っていますが、もう少し言葉を選んでゆっくり話してくれればもっとコミュニケーションができたと思います。段々寂しくなってきたので、3ヶ月間でホームスティを出て、友達の家に居候してから、自分でアパートを借りました。

ホームスティを出てからは、日本語を使う機会が減り、一時的に日本語の上達が遅くなりました。でも少しずつ日本人の友達が増えたり、日本人の彼氏もできて、名古屋学院という私立の男子中学校・高等学校で英語の講師として働き始めましたので、日本語を聞いたり話す機会がグンとまた増えました。

しかし、聞き取り能力が低くすぎて、相手の言っていることがなかなか理解できませんでした。また知っている単語が少なすぎたので、単純な文章なら言えたものの会話能力はあまりありませんでした。でも上達する意欲が高くて毎日必死に頑張りましたので、少しずつ少しずつ聞き取り能力と単語のレパートリーが増えて、それに伴い話す能力も上がりました。当然周りが名古屋弁ばかりなので私も名古屋弁になりましたが、旅行中や県外の人とはちゃんと標準語で話しましたので、標準語と名古屋弁を区別しながら覚えていったようです。名古屋を離れてからも当分名古屋弁を使っていましたが、次第になくなり、今は名古屋に旅行する時だけ出てきます。

生活の中で新しく出会う単語を家で復習したり、積極的に日本語を話そうとする努力を重ねて行くうちに、日本語が見る見るうちに上達しました。日常会話レベルまでは3〜4年間かかりましたが、今振り返ってみればとても充実した楽しい時でした。

来日5年目の時に、4年間英会話を教えていた会社からおいしい話がありました。本社が名古屋にある商社で、アメリカに支店ができたばかりなので、英語ができるスタッフが必要となり、私を正社員として採用したいという話です。私にしてみれば2度とないチャンスで喜んで入社し、東京支店に転勤して、海外事務所に所属することになりました。

そこでまた大きな壁にぶつかってしまいました。ビジネス用語は普段の生活でなかなか出会いませんので、ほとんど知りませんでした。ましてやエンジニアリングの商社なので工業用語も必要でした。でも一番苦労したのは敬語でした。敬語は大学で勉強したので、一応作り方や使い方を知っていましたが、使う習慣はあまりありませんでした。また常体(だ・動詞や形容詞の終止形で終わる文体)と敬体(です・ますで終わる文体)の適宜な使い方がわかりませんでした。中学高校と大学では敬体を話す練習をしましたが、日本にきてからは形式張った日本語を使う機会がほとんどなく、友達とは常体で話していましたので、敬体の日本語で流暢に話せませんでした。

また、英語の場合は相手が目上でも仲が良ければ常体で話し、逆にあまり知らない人や親しくなりたくない人とは距離をおくために敬体を使いますので、親しさを感じる相手であれば、例え上司でも、敬体で話すのにとても抵抗がありました。常体と敬体を混じって話したり、時々敬語に変わったり、興奮して名古屋弁も出たりしましたので、妙な日本語だったと思います。

私の日本語を美化したのは主人でした。東京支店で知り合いましたが、北海道営業所を作るためにすぐ札幌に転勤となりました。1年弱遠距離恋愛をして、結婚が決まってから、会社をやめて札幌に引っ越してきました。主人は元々北海道の人で、標準語に近い日本語を使います。敬語、丁寧語などを上手に使いこなせる人なので毎日彼の日本語を聞いて、常体と敬体の使い分け方や敬語の使い方が段々と身にしみ込んできました。

6年間かかりましたが、ようやくネーティブスピードの日本語でも聞き取れて、瞬間的に理解し答えるようになりました。単語や慣用表現もかなり覚えましたので、日々の生活に苦労することないくらいまで日本語を伸ばす事ができました。

結婚し家庭を築き、1年後に長女が生まれました。札幌に知っている人がいなかったので、話す相手は主人と娘しかいなくて、娘が生後半年の時に3人で2年半オーストラリアに行くことになり、日本語を使う機会が大分減りましたので、日本語を勉強する必要性を感じなくなりました。

ライター:EFL Club 校長 Laura Macfarlane

オーストラリア出身。グリフィス大学近代アジア学部卒。日本で25年以上生活。日本語能力検定1級を取得したバイリンガルで、3姉妹の母。1996年にEFLを創立。その理念やカリキュラムの元になっているのは、自身の娘たちをバイリンガルに育てた母としての感覚、ハンディキャップを持つ次女の傍らで必死に勉強した脳の仕組みや言語訓練に関する知識、自身の日本語能力検定1級取得に至る過程から学んだこと、日本国内の様々な学校で英語指導を多数行った経験などなど。これらを通して自分が正しいと思ったことだけを、愛する生徒たちのため日々力強く実践中。

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